昭和51年5月7日  朝の御理解

※5月7日の朝の御理解はファイルが二つある、両方繋がっているかどうか確認する必要がある。(静行)



御理解第29節

 ・・・ですから、おかげをおかげと、おかげを求めてくる信者もあると同時に、そのおかげを渡した後には必ず、理解というもの、御理解というものがです、ね、合楽ではそのご理解をいよいよ大事にする、もうご理解を日々、あの、これはもう絶対、体験が生まれるです。
ね、だから、皆さんでも、なら、ご理解を頂いてです、今日一日の自分の生き方の上に、・・?の上に、そのご理解が頂けるなら、●④ 例えばこれは私どもの場合、あの商売しておる時分に、例えば商いをまあ、させてもらいます。
勿論引き上げて帰ってからの場合は、ブローカーのような商売でしたから、あのもう、どんなに回っても回っても商いがないこともあります。
けれども十二時になってもです、やはりおかげを頂かなければ、もう、今日はよかよかといったようなことがございませんでした。
みな体験をおかげを頂かなければです、もう、心、自分の心が承知しない。
だからそのくらいな、いうならば、弾みと言うかね、ご理解を頂いて、まず言うなら、おかげも生まれていない、体験も生まれていないとするならです、ね、その体験を感ずる所までは、教えに徹してみるというくらいなもんがなからなければです、もう?が進まない。明日と言う日が迎えられんと言うくらいな、意気込みがいります。
教えを頂く、行じるということは、もうぎりぎりんでも、ほんとに素晴らしい心の中に、または形の上に体験を頂くもんです。素晴らしいタイミングが生まれてくるです。
●② ね、先日ある人の、お取り次をさして頂いとりましたら、その三味線を弾いておって、あの、三味線のさおんところを、こう、がしにぎりしとる。
そして、ばちとか全然・・?これはもうジャンジャン言うばっかりです。
ね、いうならば、そのさおんところの、つぼつぼと言うものをです、勘所という所を、きっち、きっち抑えて弾く所に、素晴らしいリズムが生まれてくるです。
私は教えを行ずると言うことは、その勘所に、勘所を押さえさせてもらえる働きをするもんだと思います。
だから、良い調子が出てくるんです、心の上にも、おかげの上にも。
ね、だから、そういう日々でなからなければいけないです。
はあ、ほんとに明日は、もうこのことばお礼を申し上げなければおられないという体験が必ず生まれてこなければうそです。
ね、だから、教えをいただかなきゃ、だから、帰られないわけです。
ね、そして今日はここだけでもというような、生き方を見につけていく、ね、そうい言う信心を、私は梅の花の信心だ、いや、そういう信心こそ、おかげと共に力と徳を受けて行く信心だと。いうならば、長う散らぬ、必ずそれが、徳になる、ことになるのです。
ね、おかげだけで終わってしまう信心、ね、から、一つそれが力になり徳になるような信心の、いうならば、進め方をです、身に付けさせてもらわなければいけません。
それにはやはり、ね、聴聞です、ね、教えを聞くことです。それでそれを本気で行ずる事です。
もう以外にありません。ね、ただお取り次を頂いてお願いをする、おかげを頂いた、と言うだけの信心から、ね、信心を頂くという、おかげを頂くという、おかげの信心を今日は桜の花の信心と言うふうに聞いていただた。
信心を頂くということ、それを梅の花の信心と言うふうに聞いて頂いた。
しかも梅の花の信心にはです、ね、きついこともある、だれることもるあるけれども、そのきつい所、だるい所をです、辛抱しぬく信心を、やはり信心辛抱梅の花、やがて鶯来て止まる、というような、おかげにもつながるし、ね、それが梅干ともなってくるというようなです、お徳の信心を、神様、教祖は長う散らんと仰っておるところではないかと思います。
今日私が頂いた、ご神前で頂いた、藤の花の、藤棚の、それこそ見事な見事な、白い藤の藤棚ですけども、それはもう半ば散っておる、色あせて来ておる。
ね、そしてそれが散ってしもうたら、はあ、見事見事というて、ね、花を眺めたり、その下で酒を飲んだり食べたりするような、そのことも、楽しいことでしょうけれども、ね、花が散ってしもうたら、もう、後は見向きもされないといった様な信心では、いけない。
今日、私はその藤棚のそう言う情景を頂いて、この二十九節を頂きましたから、梅の花の信心より桜の花の信心ということをです、いわゆる藤の花の信心から、ね、ひとつ、富士の山の信心にね、お互い藤の花の信心がいけないのじゃありませんよ、おかげを受けなければなりせんから、ね、おかげを受けなければなりませんけれども、その藤の花の信心から、富士の山を目指させてもらう、同じフジはフジでも、ね、おなじ見上げられるというても、これはもう、良い意味に見上げられる、山が富士の山であります。
ね、長う散らぬ、永遠に散らぬ、永遠にと言う、それは信心を頂くということ、お徳を受けるということであります。
ね、合楽ではです、そのたとえば、ね、おかげを渡すだけではなくて、必ず信心を渡しておりますから、その信心を受けて帰って下さらなければです、皆さんが身につけて帰ってくださらなければ、やはり、合楽の信心は桜の花の信心ということになりましょう。
ね、だから、桜の花の信心にするも梅の花の信心にするのも、皆さんのいうならば、心しだいと言うことになります。
ね、私は合楽で有り難いのはです、そう言うその両面があるということを改めて有り難いと思わしてもらいます。
ね、そしてなら、私の心の中に、ほんとに教えを身に付けて、ね、教えを頂くことを楽しみにお参りをしてくる人を、それこそ、・・?のおやじさんじゃなかけれども、私が頭を下げてお礼ば言いたいごと、私はうれしいんです。
ね、その教えを粗末にすると、それこそ・・?追っかけるごとあると、ほんとそうです、せっかく参ってきてあんた何しきたのちゅごた、いやしませんけど、心に思うです。
ね、そう言うひとつあの、信心、いよいよ梅の花の信心、いわゆる富士の山の信心を目指して頂きたいと思います。どうぞ。    
 ほんとの信心が育っておるという意味においては、いま日本一です。
ね、お道の教師、それから分かるでしょうが。日本中になら五人も教師になる所はおりませんし、こんだ、今年は四人の先生が、出たというのは、全国にどこもないのです。
それ名実共に大変なごひれいを頂いとる教会はいくらもありますけれども、なら、信心が育っていきよると言うところは、合楽が今一番なんです。ね、ですから、そう言う一部の人達の信心を育てていくのじゃなくて、合楽が打って一丸となっての、信心が育っていくということになりませんとね、これは神様も残念なら、皆さんも残念ですよ。信心を頂いていていかなければ、今の合楽では頂けれるんです。
ね、だからいいよ、信心を頂くことの、頂くという梅の花の信心をひとつ願わなきゃいけませんですね。どうぞ。  (大坪かよこ)